◆選り抜き記事◆
「あきらめ」の効用

2006年10月31日
仏教に「四諦」という教えがあります。
ネットでちょっと調べてみたら、これは仏教において真理に達するための道筋であるみたいなことが書かれていたのですが、 私のおぼろげな記憶をひも解くと、その昔、一般向けの仏教解説本か何かで見た時には確か「八諦」となっていて(間違っている 可能性大です…すみません)、しかもその意味も「諦め」の文字が示すとおり、人生においてあらゆることを「諦める」ことについて 説かれていた記憶があります。
当時の私はそれにかなり違和感を感じましたし、反発も覚えました。
「諦めないこと」の方が前向きだし、何かを達成できるエネルギーを感じますよね。それなのに、えらい人が人生を説くのに、 言うに事欠いて「諦めよ」とは何事か!と思った訳です。後ろ向きだし、怠惰だし、そこに意思のつよさは感じられないし。


ところがです。
年が経つにつれて、「あきらめる」ということには実はかなり前向きな意味があることに徐々に気付き始めました。 この辺が年の功というところでしょうか(違)。
「あきらめる」ということは、単なる挫折というだけではなく、「執着から自らを解放する」「逃れられない試練を受容する」という 側面もあるような気がしてきたのです。


例えば、片思いの相手がいたとして、あきらかに相手には恋人がいて自分には気がなさそうだとします。それでも諦めきれずに、 それこそ昔のあみんの曲ではありませんが「私待つわ あなたが振られる日まで」などとやったとしましょう。いやあるいはもっと 積極的に自分の魅力をアピールしてこちらを向かせようとしたりしたとしても、です。冷静に考えて、この恋愛が成就する可能性って… どうでしょう。むしろこうして執着することによって、その雰囲気を察した相手からは逆に敬遠され、新しい恋の可能性があっても 気付くこともなく、時間とエネルギーを浪費していく…そういうことになりそうだと察しがつきます。こうして冷静に書いていると それとわかるのですが、こういうことは往々にして当人は気付かないまま、意外に世の中で頻繁に起きているような気がします。


むしろ、世の中と言うのは、どうにも諦めきれない物を断腸の思いで断ち切った後にこそ、本物の幸運が舞い込んでくることの方が 多いような気がします。
先の、恋愛の例えについてもそうですよね。相手の幸せを思い身をひいた後に、新しい本物の出会いもやってくる。
果たしたい夢があったのに何らかの障害(身体的だったり経済的だったり)によって阻まれ、諦めたとしても、 実はそれは運命によって方向転換させられただけで、その後の選択によって逆に新たな道が開けたりすることもある。
そもそも、思うんですが、恋愛にしても、夢にしても、本当に果たすべき、果たされるべき運命にあるものは、 心の奥底で知覚できるものであるような気がするんです。「運命の人」というとなんだか陳腐ですが、「この人とは縁がある」 「この人とは結婚しそう」という、言葉で言い表せない確信に似た感情(直観?)というのは、「本物」に出逢って始めて 「ああこれだ」と思うもののような気がします。そこに行き着くまでの他の人(あるいは夢)への執着は、 「こうありたい」という高望みとも言える自分自身の理想への執着に過ぎなくて、「これが本物であると思いたい」錯覚といっても いいかもしれません。でもそれは、「本物」に出逢うまでそれが錯覚であることに気づけないもので、そこが難しいんですよね。 ただ、一つだけいえるのは、「錯覚」に囚われ過ぎていては「本物」が見えなくなるということです。
諦めなくてはならない状況、というのは、「諦めた方がいい状況」なのかもしれない。そう割り切って諦めるところから 掴む幸運もあるのかもしれない。少なくとも、そう考えることは精神衛生上も良いような気がします。
そして多分、「本物」とは必ず出会えるし、自然に手に入る、結びつく、そういう縁があるものだと思うのです。
ただ、もちろん、自分自身が「相応のレベル」に達している必要はあるかも知れません。物事の自然な流れというのは、 分不相応なところには流れてこないし、結びつきもうまれない。類は友を呼ぶとはよく言ったもので、まるで水が高いところから 低いところへ流れていくように、人のエネルギーも自然にそういう方向へ流れている。これは既に経験則です。


例えがなんだか脱線気味で申し訳ないです(>_<;)
仏教における「諦め」は、さらにすすめると「物事への執着を断ち切る」「全てあるがままに受容する」ことに通じるのだろうなと 思いますが、これは必ずしも後ろ向きなものではなく、きっと「より良く生きる」「より惑わされずに生きる」ための知恵でも あるのだろうなと思うのです。凡人が考えることなので、おそらくもっと深遠な意味がそこにはあるとは思うのですが、 さしあたって凡人にとっては、このくらいのレベルで知覚しないと俗世を生きれないですし(笑)正直、こういうことを書いては いますが、私自身いろんなことに執着バリバリなので、こういうことを考えながら、自己内省したりしてみるのです…

当サイトは佑月雅実の個人サークル『銀月館』が個人的趣味により運営しています。 パロディ作品も扱っていますが、他の企業、団体等とは一切関係ありません。 なお、創作・ 二次創作の別を問わず、当サイトの画像、文章、素材等の無断転用転載は御遠慮下さい。